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Author Archives: 副島

野球!朗読会~センバツ観戦

こんにちは、マーケティング部門の副島です。
選抜高校野球に続いてアメリカのMLBも始まり、日本のプロ野球ペナントレースの開幕が待ち遠しい日々を過ごしています。

そんな中、阪神タイガースファンの私は3月16日に兵庫県尼崎市のホールで開催された、ABCラジオ朗読会「野球!野球!野球!吉田義男90歳」を観に行ってきました🎵

朗読会のテーマはタイガースを監督として初の日本一に導いた吉田義男さんの半生!
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吉田さんの経歴について今まで詳しく知りませんでしたが、お若い頃にご両親を亡くすなど苦労されていたご様子。
吉田さんそっくりのモノマネをアドリブ交えながら演じた松村邦洋さんや、流石プロ!とうならせるABCアナウンサーの語りに笑って泣いて感動(^^)

吉田さんご本人も参加してのタイガースの今年を占うトークショーも楽しみ、六甲おろしを会場全体で歌って終了!
2ヶ月前から待った甲斐がありました(^^)v
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その後、甲子園球場に行って吉田さんの背番号でタイガース永久欠番・23番のプレートを拝んできました。

甲子園では18日から始まる選抜高等野球の準備中! 観に行きたくなってネットでチケットを予約してしまいました笑
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*****

迎えた20日(春分の日)、センバツ観戦のため再び甲子園球場へ♫
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夏の選手権大会ではいつも外野席から観ていたけど、雨が降るとの天気予報を見て内野の中央指定席をチョイス。

申し込むのが遅くて最上段から3つ下という席だったものの、屋根があるし背もたれあるし、外野席より近くて観やすい気がしました。
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第1試合プレーボールから第3試合5回終了時点まで観戦しましたが、終始冷たい風が強く吹いて寒かったです(><)

おまけに第2試合では途中から予報通り雨が降り出し、背後(屋根の下のすき間)からはビュービュー暴風に襲われ、細かな雪も吹き込んできました!

そんな悪条件の中でも選手は負けずに真剣にプレーを続け、アルプススタンドの応援も止みませんでした。
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6、7点差がついた試合ばかりでしたが、リードしても最後まで手を抜かない、負けていても最後まで諦めない球児の姿に感動⭐︎⭐︎⭐︎

今までタイミングが合わずに長いこと遠ざかっていた春のセンバツ、寒くても観に行って良かったです。
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初めての朗読会も、久々のセンバツ観戦も、心に残る思い出となり、たまには日常と違う環境に身を置くのも良いな〜と思えた出来事でした。

誕生日のマラソン大会で京丹後・豊岡へ

こんにちは、マーケティング部門の副島です。
9月半ばの日曜日は私の誕生日とマラソンの大会の日程が重なり、京都府・兵庫県の北部に行ってきました。

京丹後市で開催されたウルトラマラソンの大会は100kmと60kmの2部門があり、4年前に100kmに挑戦して途中リタイアした私は今回、完走狙いで60kmの部に出場(^・^)

前日には大会会場で地元の名産「ばら寿司」作り(畳1畳分の大きさ!)を楽しんだり、ウルトラ攻略トークイベントで完走に向けたアドバイスを聴けて勉強になりました。
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西隣の豊岡市内のホテルにチェックインした後、城崎温泉まで足を延ばして外湯めぐり(*^^)v
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豊岡といえば、アーツが総代理店を務める「羽倉ランドセル」を製造している羽倉の工房がある場所!
工房を訪れる時間的余裕はなかったけど、ちょうどその時、豊岡駅に展示されていたランドセルを見ることができて嬉しかったです♪
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さて、本来の目的だったマラソン大会は翌朝9時にスタート!
お天気に恵まれ、丹後の海の美しい眺めに心癒されながら走ることができましたが、気温34℃の猛暑の中で体力を消耗して途中から歩き混じりになってしまいました。
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33km地点の関門を制限時間・14時まで残り20秒を切ってなんとか通過したものの、その先に進む気力は残っておらず(>_<) 231018_tango_5

大会の完走率は50%を切っており、完走できなかった人も多かったとはいえ、フルマラソン(42.195km)より短い距離でリタイアしてしまい、もうちょっと頑張れなかったかな・・・と後になって悔しい気持ちも出てきました。
でも、途中で倒れて大阪に帰って来れなくなったらいけないし、生活や仕事に支障が出てもいけないので、その時の判断は正しかったと思っています。
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先月の誕生日で還暦まであと1年となり、同年代以上のランナーの方が好成績で頑張っているのを見聞きすると羨ましく、焦る気持ちもありますが、自分の体調と相談しながらマイペースで走ったり、好きな山に登って自然の中をのんびり歩いたりして心身をリフレッシュさせ、健康を保っていきたいな~と思う日々です。
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GW帰省~5月の振り返り

こんにちは、マーケティング部門の副島です。
ゴールデンウィークの5/3~6、九州の実家に帰省しました。

帰省の第一の目的は両親の遺品整理でしたが、思い出の品々があり、また、大量の衣類や書類・日用品、使っていない雑貨・家電製品などを前にして片付けはほとんど進まず(>_<)
でも地元自治体のリサイクルのルールを把握できたので、残しておくものとそうでないものを仕分けして整理していくつもりです。

帰省中は親戚に会いに行ったり、近所の方と飲みに行ったり・・・とマスクなしでの久しぶりの再会を楽しむことができました。
また、1日だけお天気に恵まれた日は墓参りに行き、そこから隣の市の祐徳稲荷(ゆうとくいなり)神社までゆっくりランニング!
喪中なのでお参りはできなかったけど、門前町でお店を開いているラン友さんと数年ぶりに会ったり、昔ながらの建物が並ぶ通りを初めて歩いたりしてリフレッシュできました。

祐徳稲荷神社

佐賀県鹿島市にある祐徳稲荷神社の入口。日本三大稲荷の一つ。



酒蔵通り

鹿島市・浜地区「酒蔵通り」。江戸時代後期から昭和初期までの伝統的な建物が並んでいます。


最終日は大阪に戻る途中で別の親戚の家に立ち寄り、3月に開催されていたマラソン大会のTV中継の録画を鑑賞♪
お猿のかぶりものと「ワラーチ」という、ひも付きのサンダルが注目を浴びてインタビューを受けているシーンも確認できて、帰省の第二の目的を果たせました(*^^)v

さが桜マラソン

さが桜マラソン。この後、地元ケーブルTVのインタビューを受けました。


実は、その3月のマラソン大会が終わった後、体調不良で発熱外来のお世話にもなっていました(汗)
ただの風邪だったようですが、その後は鼻詰まりが頻発して、ランニングをしていてもペースを上げると息苦しくなるため、ゆっくりとしか走れず、そういうことが繰り返し続いて、走ること自体を楽しめなくなってしまいました。

このままではいけない!と感じて、週末は山登りをしたり、美味しい食べ物や温泉を求めて走りに行っています。

GWが終わった翌週は、大阪府と奈良県の境にある葛城山(かつらぎさん)に登り、燃えるように赤いツツジの眺めを楽しみました。

葛城山のツツジ

5月中旬の葛城山。見頃は少し過ぎていましたが、燃えるような色のツツジは雨の中でも綺麗!


更にその翌週は大阪城公園をスタートして淀川沿いに枚方まで行き(途中から腰痛が出てウォーキング)、リニューアルオープンした氷屋さんで美味しいかき氷を堪能♪

枚方凍氷

枚方市にある氷屋さん「枚方凍氷」。お天気に恵まれて、かき氷を求めるお客さんでいっぱい!



枚方凍氷・かき氷

テイクアウト用店舗でマンゴー+ミルクのかき氷をいただきました。


そうこうしているうちに、母の一周忌法要が近づき、アーツギフトで引き出物用の商品を注文したり、地元の花屋さんに連絡したり、バタバタと準備を進めています。
母が急に亡くなってから早1年。その間には予想もしていなかった父の死もあり、1~2ヶ月ごとに法事を執り行う、めまぐるしい日々でした。
法事の準備をするのには慣れてしまった感があるものの、親が居ない淋しさは簡単にどうにかできるものではありません。

TVドラマやドキュメンタリーなどで家族のふれあいを取り上げているのを見ると、つい両親のことに結び付けて悲しい気持ちになってしまう時もありますが、そうやって思い出すのも親孝行だと自分に言い聞かせて、これからも続く、初盆や父の一周忌などの法要を無事に執り行えるよう、頑張っていきます。

最近は走る時間も少なくなり、その結果、体重が増えて腰痛も出るようになってしまったので、無理がない範囲で運動して睡眠もしっかり取るなど、自分の健康管理にも気を配っていきたいと思います。

父との別れ~奈良マラソン出場

こんにちは、マーケティング部門の副島です。

6月に亡くなった母の百か日法要(卒哭忌)を9月初めに執り行いました。
卒哭(そつこく)とは、泣くことを表す「哭」を卒業する、つまり亡くなってから百日を機に故人を思い出して泣き暮らすのを卒業し、以前と同じような暮らしに戻りましょう、ということだそうです。

文字通り、気持ちも新たに再スタート、山登りなどを楽しんでいましたが・・・。

西九州新幹線・かもめ号

10月下旬、父の通院付き添いのため西九州新幹線かもめ号を利用。乗車時間わずか6分。


施設で暮らしていた父が10月末から体調を崩し、11月に入院。
3日後に急変の知らせを聞いて職場から駆けつけると父は一旦持ち直してくれましたが、結局、入院から6日後に息を引き取りました。

腎臓を悪くして数年前から投薬の治療を受けていた父がなぜ急に亡くなったのか?
原因が知りたくて解剖をお願いしたところ、膀胱がんができて肝臓や膵臓に転移しており、最終的には腎不全の進行に身体が耐えきれずに死に至った、ということが分かりました。

母の死から半年も経たないうちに父とも別れることになってしまい、喪失感が大きかったです。

でも、10月の通院の際に無理やり自宅に連れて帰り(施設入所後2年半たって初めて)、母のいる仏壇の前で手を合わせてもらっていたことが救いでした。
そして、差し入れのプリンを美味しそうに食べてくれ、翌日の帰阪の前に施設で面会した時に「ありがとう」と言ってくれたことも。
それが父から聞いた最後の言葉でした。

父の一時帰宅

施設入所から2年半たって実現した最初で最後の一時帰宅。


病院で「危ない」と言われてから3日間も命をつないでくれた父。
私や弟、叔母たちが父に何度も呼びかけて励ましたり、今まで家を守ってくれたお礼を伝えたり、心配かけたことを詫びたり・・・、向き合う時間をくれたことに感謝しています。

通夜や葬儀については、母の時は初めての喪主代行としてどうしたら良いか分からず何もかも一人でやろうとしていましたが、その時の反省も踏まえて、正式な喪主となった今回は弟に通夜や出棺時の挨拶を任せたり、友人や親戚の助けも借りたりして滞りなく父を見送ることができました。

父の思い出写真

斎場に展示された父の思い出写真。若い頃はイケメンだったようです。


父の話が長くなってしまいましたが、12月に奈良で行われるフルマラソンが1ヶ月後に迫っていました。

そこで、葬儀の翌日、気分転換も兼ねて少し運動しようと思って実家の近所でジョギング中、ぼんやりしていたのかコンクリートの路面の段差につまづいて転倒!
両ひざ、両手のひらから出血し、特に左膝付近の傷と打撲がひどくて数日間は階段の昇り降りがまともにできず、その後も左足の痛みはなかなか取れませんでした。

練習が思うようにできないまま日が過ぎて、迎えた奈良マラソン当日。
前半は知り合いのランナーの皆さんと会えるのを楽しみながら順調に進んでいきました。

奈良マラソン

奈良マラソン・天理教本部前。まだ好調だった25km過ぎ。


ところが後半31km過ぎの給水の後で腹が痛くなり、35km付近からは足に力が入らなくなり大幅にペースダウン。
苦しい走りの中で、「両親がどこかで見てるかな?」とか「サッカー日本代表のように最後まで諦めずに!」とか思ったけど、身体は動いてくれなくて前に足を運ぶだけで精一杯。

「このペースでは目標の4時間切りは無理」と悟って情けない思いで下を向いていたら沿道からの声援で顔を上げる、ということを繰り返し、40km以降は応援してくれる方々に手を振りながら最後まで歩かずに完走できました。
 
2013年2月から続けてきたサブ4(4時間切り)が途切れてしまったのは残念でしたが、直前にいろいろあった中で完走できて良かったです。

奈良マラソン完走

苦しみを乗り越えて4時間6分38秒で完走!


5年半前に母が一時入院してから始まった両親の介護生活。
担当ケアマネジャー、介護ヘルパー、デイサービス、老人ホームの介護関係者の皆さん、そして、かかりつけ医をはじめ病院関係者の皆さんにはこれまで大変お世話になり、言葉では言い尽くせないほど感謝の気持ちでいっぱいです。

これからは帰省しても両親の顔を見ることはできず、淋しい限りですが、二人をしっかり弔うために健康に気を付けて生きていこうと思います。

京都・知恩院の御影堂

父の葬儀から2週間後、京都の知恩院にて両親の回向(えこう)をお願いしました。


初めての喪主代行

こんにちは、マーケティング部門の副島です。
6月初め、母が81才で亡くなりました。誤嚥性肺炎でした。

入居していた老人ホームで5月下旬に食べ物を喉に詰まらせ、血中酸素濃度が70%程度しかない状態となって緊急搬送されました。
その後、酸素濃度は90%台まで戻ったものの、回復のために数日間~1週間の治療が必要と病院から電話で説明を受け、入院5日目には酸素マスクが取れて酸素濃度は98%、呼吸は安定している、と聞かされました。
4月に同じ症状で10日間入院した時と同様に退院の日も近いのでは?と期待していたのですが・・・。

入院9日目の朝5時前、突然携帯電話が鳴り、病院から「母の血圧が下がっていて意識が無い」と、まさかの急変の知らせ!
突然の話に呆然としながら弟や親戚に連絡を取り、バタバタと準備をして6時半前に家を出て地下鉄~新幹線~特急列車と乗り継いで11時過ぎに病院に着いたとき、病室で一人ベッドに横たわっていた母は顔が痩せ細っていたけど、まだ息をしていて、こちらを見ているようでホッとしました。

でも「お母さん、お母さん」と呼びかけても反応はなく、そのうち母の呼吸(喉の動き)が止まっている時間がだんだん長くなってきて・・・。
看護師さんに言われて気付いた時には母の息が完全に止まっていて、12時34分、担当の医師から死亡の宣告を受けました。

母の顔を見て1時間半も経たないうちに亡くなってしまい、遠方から向かっていた弟は間に合わず、県内から見舞いに来た叔母たちも帰った後で、私一人が看取る形になりました。

通夜前の斎場。椅子の間隔を空けて配置されています。

通夜前の斎場。椅子の間隔を空けて配置されています。


それから葬祭場に連絡して、自宅に母の遺体を搬送してもらい、お坊さんを呼んで「枕経」を済ませた後、近隣の親戚が弔問に訪れる中、葬儀会社のスタッフと長時間にわたって打ち合わせを行いました。

通夜~葬儀~火葬の日程調整から始まり、
・斎場のホール(大・小の2択)
・祭壇や供花の種類
・棺の種類、納棺師の手配
・骨つぼ、それを入れる箱
・霊柩車の車種
・火葬場まで行く人を送迎するジャンボタクシー
・通夜の後で親戚に出す料理、火葬場で待つ間に出すお弁当
・初七日から帰ってきたときに食べる料理
・弔問客に渡す香典返しの数と種類、自宅に置く予備
・地元紙のお悔やみ欄への掲載
など、いろんなことを弟や叔母と相談しながら決めていきました。
(スタッフから提示されたパンフレットを見ながら、映画『老後の資金がありません!』を思い出していました。)

遺影に使う母の写真を探したところ30年ぐらい前に働いていた頃のものしかなくて焦りましたが、3年ほど前にデイサービス先で父と一緒に写った笑顔の写真が見つかり採用することに。
遺影の額縁は一般的な黒だと思っていたら、明るい紫色のタイプが母に似合うと勧められて迷ったあげくに紫に決定。
普段着だった元の写真から、合成で着せ替えできると知って、これまたいろんなパターンから迷いながら額縁に合わせて紫色の落ち着いた感じの和服に決定。背景も明るめのオレンジ色にしてもらいました。

また、スタッフの厚意により、思い出の写真をいくつか集めたコラージュ写真を作り、斎場にコラージュ写真と一緒に母が好きだった演歌歌手のカセットテープや民謡の本、デイサービスで書いた塗り絵を展示するコーナーを設置してもらうことになりました。

母のコラージュ写真と思い出の品々のコーナー。

母のコラージュ写真と思い出の品々のコーナー。


翌日には施設に居る父に面会して母のことを伝えました。これが一番つらくて声が上ずってしまいましたが、逆に父から「しっかりしろ」と言われました。
午後から納棺師の方が2名来られて母の身体を清め、母の衣装ケースの中にあった着物を着せたあと、親類一同で母が愛用していた服を棺の間に詰め込みました。
(入れすぎると火葬に時間がかかるとのことでしたが)

それから斎場に移動し、すぐそばの市役所に死亡届を提出。司会者の方に対して病気がちだった母の思い出を語っていたとき、不意に涙が出てしまいました。
こじんまりとした式のため参列者の数は少ないながらも親戚や同級生、近所の方が見えられてお悔やみの言葉をいただき、こういう形での久しぶりの再会にまた涙が出そうになりました。

18時から通夜が始まり、父も施設から車で送ってもらって参列。最後には、前夜に葬儀会社の担当スタッフから渡されていた「お通夜の挨拶例文」を少しアレンジしたものを喪主の父の代わりに読ませていただきました。
その夜は斎場の控え室に宿泊。人数以上に注文してしまった料理は食べきれず、線香の火を絶やさないように2時間ごとに起きて朝を迎えました。(13時間は消えないという線香でしたが念のため)

午前中、スタッフから遺族の焼香の際の段取りの説明(お坊さんや参列者への礼の仕方など)を受け、司会者が母のエピソードを紹介してくれた後、13時から葬儀が始まりました。
喪主の父の焼香の際には隣で手を支えながらなんとか済ませ、続いて自分の順番が来て緊張しながら祭壇の前に進んでお祈りしました。前日と同様、最後に「遺族・親族代表挨拶文」を読み上げて無事に終了。
棺の中に祭壇の花や思い出の品を入れて出棺。その際にも参列者の方に短く挨拶して火葬場に向かい、火にかけられる前の母の顔に「ありがとう」と言ってお別れしました。

火葬が終わった後、お寺に移動してその日のうちに三日参り、初七日まで済ませ、帰宅したのは18時近くになっていました。

父に代わって身内の葬儀を初めて取り仕切ることになり、慌ただしく時が過ぎていく中、何をすればいいのか戸惑うこともありましたが、弟家族や従兄弟をはじめ、親戚、友人、地区の皆さん、介護サービスの皆さん、葬儀会社、それにお寺のお坊さんなどのお蔭で滞りなく進めることができました。

その後、お骨になって自宅に帰ってきた母を誰もいない家に置いてはおけず、位牌だけを大阪に持って帰ることに。お骨と遺影をお寺に持参して二七日(ふたなのか)から六七日(むなのか)までの一週間ごとの法要をお願いしました。

それからも各所への相談・届け出、施設からの母の荷物の引き上げ、病院への入院代の支払いなどを済ませ、母が亡くなってから6日経った夜にようやく大阪に戻りました。
帰りの特急列車に乗ったときは気が抜けたのか眠気を感じ、新幹線に乗り継いだ直後は急に涙があふれてきて30分以上止めることができませんでした。(隣の席に誰も居なくて良かったです。)
翌日、8日ぶりに会社に出勤すると、たくさんの方から温かい言葉をかけてもらい、そこでも胸にグッとこみ上げるものがありました。

母は私の小さい頃から身体が弱く、あちこちの病院に入院したり、脳腫瘍や乳がん、子宮筋腫などの病気になったりしていました。
そして私は高校卒業後に関西に出てきて大学中退、阪神大震災被災、結婚しない、正月にも帰らない、帰省しても走るの優先…と自分の好き勝手に生きてきて母には心配をかけてばかりでした。

他の家族もいろいろあって心穏やかな人生ではなかったかもしれません。でも、5年前に母が倒れて数ヶ月間入院してからは帰省する回数が増えたので、少しは親孝行できたのかな・・・?
毎朝、母の祭壇にごはんとお茶、お水をお供えするのが日課になったこともあり、亡くなってから母のことを思い出したり考える時間が多くなりました。
これから母にはゆっくり休んで、静かにこちらを見守ってほしいと願っています。

父の日にアーツギフトから「くりーむパン」を父に贈り、同じものを母の祭壇にお供えしました。

父の日にアーツギフトから「くりーむパン」を父に贈り、同じものを母の祭壇にお供えしました。


母の訃報を知らせることができなかった方には弔事はがきを送らせていただきましたが、今後も四十九日法要~納骨、相続の手続きや遺品の整理などが続きます。
先月末から今月初めにかけて、父の通院の付き添いや母の様々な手続きのため帰省して同級生のいとこに会った時、四十九日の法事の準備に一部漏れがあったことが発覚!

白木の位牌から本位牌に変えるため地元の仏壇店への発注、仏間に飾るお花の手配、猫が破ってボロボロになった座敷の障子の貼り替え依頼は済ませていたものの、出席者のお弁当や引き出物、そして母にお供えする御霊供膳(おれいぐぜん)のことが全く抜け落ちていました。法事までに間に合うよう慌てて手配を進めているところです。
そして、四十九日が終わり「忌明け」となったら香典返しも忘れないように準備をしていきます。

気がかりなのは全国でコロナの感染が再拡大していること。なんとか無事に法事を済ませることができて母に落ち着いてもらえるよう願う日々です。
これからは残された父を支えるために、私自身も心身の健康を保ちながら頑張って生きていこうと思います。

今年3月のお彼岸の時に施設を訪問し、窓越しに電話したのが最後の面会でした。

今年3月のお彼岸の時に施設を訪問し、窓越しに電話したのが最後の面会でした。


長くなってしまいましたが、最後に、皆さんの中で、お年を召された親御さんがいらっしゃる場合は、(今は難しいということがあるかもしれませんが)話をしたり、会いに行ったり、できるうちにたくさんしてあげてくださいね。

「1.17」から27年

こんにちは、マーケティング部門の副島です。
今年も、私にとっては忘れることができない「1月17日」が近づいてきました。

27年前の1995(平成7)年1月17日5時46分、兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)が発生した時、私は神戸市東灘区の木造アパートの2階で震度7の直撃を受けました。
 
まるでアパート全体がプールかトランポリンに投げ込まれたような激しい揺れが上下にゆっさ、ゆっさと続き、やっと収まったかと思うと、もう一度揺れが・・・。
よく言われる縦揺れとか横揺れとか考える余裕もなく、頭から布団をかぶり、なすすべもなく耐えるしかありませんでした。

当時住んでいたアパート。隣の家にもたれて倒壊せずに済みました。

当時住んでいたアパート。隣の家にもたれて倒壊せずに済みました。※写真は後日撮影


揺れが収まった後、家の外からシューッと水が噴き出すような音や「おーい、おーい」と誰かが叫ぶ声が聞こえてきたため不安な気持ちになり服を着ていると、自治会の方が心配して迎えに来てくれました。

ようやく部屋の外に出ると、隣の一戸建住宅が軒並み傾き、その向こうに見えるはずのない景色が広がっていました。
周辺ではガスの臭いが立ち込めていたため、一旦その場を離れ、6時30分頃、公衆電話から実家の親に無事を知らせた後、自宅前に戻ってくると、近所の崩れた家から老人の男性が助けだされるところでした。

ふすまの上に載せられた男性を近くの医院まで運び込むのを手伝いましたが、既に亡くなられており、駆け付けた息子さんが泣き崩れるのを見て、いたたまれない気持ちになり、その場を去りました。

近所ではあちこちで家が倒壊して道路をふさいでいました。

近所ではあちこちで家が倒壊して道路をふさいでいました。


そこから歩いて5分ぐらいの所にある大きな病院に行ってみると、1階部分がつぶれており、たくさんの入院患者の方が道路などに寝かされていました。その中の一人のおばあさんと「命があるだけでも良かった」などと話をした後、中年の男性が横たわっているのに気づきました。

近寄ってみると、顔から血を流して「体が痛い、痛い」と言っておられました。私はどうしたらいいかわからず、そばに居るだけでしたが、しばらくすると、声が聞こえなくなったので急いで近くにいた医師を呼び、心臓マッサージをしてもらいましたが、その甲斐もなく、息を引き取られました。8時30分頃でした。

あの男性が亡くなられた時の顔、ほっぺたの冷たさは忘れることができません。
どこかで崩れた家に身体をはさまれて、やっと助け出されて病院の前まで運び込まれたのに、家族にも看取られず、亡くなってしまうなんて、悲しすぎます。どんなに悔しかったことでしょうか・・・。 改めて、ご冥福をお祈りします。

駅前の店舗兼住宅の大きなビルも1階がつぶれていました。

駅前の店舗兼住宅の大きなビルも1階がつぶれていました。


その日から3日間は近くにあった教会に泊めてもらい、4日目に大阪市内の勤務先に出社するため自転車で阪急西宮北口駅まで行き、そこから電車で会社に向かいました。
現在のアーツの社長をはじめ、当時所属していた会社の皆さんには、新居が決まるまで交代で家に泊めてもらったり、家探しや物資の支援など大変お世話になりました。感謝の気持ちは今でも忘れていません。

震災から1年ほどの間は、大きな物音におびえたり、夜中に地震のことをいろいろ思い出して眠れないこともありました。
その後も、いろいろと環境が変わっていく中で「自分なんか居なくてもいいんじゃないか」と時々思うこともありました。
でも、あれだけの災害の中で生き残った者の一人として、自分も含めて人の命というものを大切にしていかなければいけないと、毎年1月17日が来るたびに思い起こします。

神戸・三宮の東遊園地にある「一・一七 希望の灯り」。

神戸・三宮の東遊園地にある「一・一七 希望の灯り」。


地震が起きたあの日あの時、自分は呆然としてしまって何もできませんでした。
もっと自分がしっかりしていれば、誰かを助けることができたんじゃないだろうか・・・とよく考えます。
今、同じような災害が起こったとしても、何ができるかわかりませんが、あの時のことを思い出して、自分ができることを果たしたい、そのためにも日頃から備えをしておきたいと思います。

昨年1月17日に防災食として購入しました。

昨年1月17日に防災食として購入しました。


(以上は、震災20年となった7年前に初めて自分の体験をSNS上で綴った内容を書き直したものです。)

はじめての骨折

こんにちは、マーケティング部門の副島です。

1か月ほど前のことですが、近所の公園で怪我をしました。ランニング中に転倒して怪我をするといったことはこれまでに何度も(1年に1~2回?)ありましたが、今回はいつもと違っていました・・・。

8月上旬の休日の夕方、暑さを避けて木陰でのんびりジョギング♪ 土の上を走るのは久しぶりだな~と思って写真を撮り、再び走り始めた直後に「あれ?身体が飛んでる?」と一瞬思った後、地面にダイブ!
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左肩・左膝・右膝など左半身を中心に擦りむき、左ほっぺた、こめかみ付近もヒリヒリ痛い~(T_T) 更に、夜、寝る時になって左の脇腹も強打している事に気付きました。

あちこちの痛みで寝つけないほどツラい日が続いた後、擦り傷の回復具合を様子見しながらウォーキングを再開。公園に行って転倒の原因を探った結果、近くの木から伸びた根っこが地面の中から少しだけ顔を出しているのが見つかり、そこでつまづいたようでした(^^;)
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その後は植物園のヒマワリに癒されたり、スポーツの祭典のTV中継に元気をもらって、時々はゆっくりジョギングもしていましたが・・・。
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転倒から10日ほど経った17日(火)、クシャミをするだけで脇腹が痛くなったので骨が折れているのでは?と心配になり、終業後に自宅近くの整形外科でレントゲン検査を受けたところ、肋骨は折れていないのことで安心(^・^)
先生からは「もしかすると1本ぐらい隠れて折れてるかもしれないけど1か月ぐらいで治る。でも安静にし過ぎるのも逆効果」と言われて痛みが出ない範囲で運動を続行。擦り傷のほうも徐々に治っていきました。

ところが、21日(土)の夜、寝る直前になって左脇腹にこれまでに感じたことのない激痛が!!
横を向いたりうつ伏せになったり、どんな体勢をとっても痛くてたまらず、マッサージチェアにもたれて朝が来るのを待ち、1時間ほどしか眠れず(>_<)

何とかしなければ…とボーっとした頭で日曜日も診てもらえる病院をネットで探し、隣の市にある整形外科に電車で行ってレントゲン写真を撮ってもらったら、肋骨1本、折れていることが判明!左右11本ずつある肋骨のうち、左側の上から9本目の骨だそうで、どうやら、転倒時に骨にヒビが入っていたのが、2週間ほど経って折れてしまったらしいとのこと。

人生初めての骨折、そして治るまで2~3ヶ月かかると聞いて大ショック!(泣)
こんなことなら、ゆっくりとはいえ痛いのを我慢して走るんじゃなかった・・・と後悔しても、もう遅い(-_-;)

腹部に「バストバンド」という伸縮性のあるベルトを巻かれ、痛み止めの薬を処方してもらいましたが、布団の上で横になると呼吸する度に腹部がふくらんで肋骨が圧迫され、痛くて眠れない状態は変わらなかったので、二晩連続でマッサージチェアのお世話になることに。
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そこで、「いつまでもこんな生活を続けるわけにはいかない…」と、思い切って折り畳み式の電動リクライニングベッドを通販で注文!宅配業者が2人がかりで運んできた大きくて重い箱を開けてベッドを広げると、端から3分の1ほどがリモコン操作で上下するようになっていて、その日は痛みを感じることなく眠ることができました。
(注文から2日経って届いた時、既に痛みは和らいでいましたが(^^; )
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水平な状態で寝るのに比べて寝返りが打ちにくい、角度が小さいと脇腹の痛みが出るため微妙な調整が必要、狭い部屋にベッドを置いたので足元に猫のトイレがあって夜中に起こされる、といろいろ問題はありますが、普段はソファー代わりにも使えるし、猫のミーコも喜んでくれているみたいだし、そのうち老後の介護生活にも役立ってくれることでしょう(笑)

さて、骨折と分かってから10日余りが経ち、脇腹の痛みはだいぶ収まってきました。幸い、仕事には支障がなく在宅勤務を続けさせてもらっていますが、まだ時々急に痛みが出ることがあるので油断は禁物!運動しないと太りやすい性質なので炭水化物は控えめにして、苦手な牛乳も飲んで睡眠もしっかりとって骨の回復に努めます。
リハビリウォーキングも休み休み無理ない範囲で続けて、いずれまた走れる日がくることを夢見ています☆彡
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皆さんも、私みたいな不注意で生活が不便になったり好きなことができなくなったりしないようにお気を付けくださいね(^o^)丿

ネモフィラフェアに行ってきました

こんにちは、マーケティング部門の副島です。

先日、自宅近くの長居公園の中にある植物園で開催されている「ネモフィラフェア」に行ってきました。
ネモフィラフェア(長居植物園)

花の事には詳しくなくて「ネモフィラって、なんかどこかで聞いたことあるな~」という程度の認識しかなかったのですが、実際に見てみると、TV番組で放送されていた綺麗な花畑の映像を思い出しました。
ネモフィラ畑(長居植物園)

植物園の中の一角なので「一面見渡す限り」というほど広くはないものの、16時半という閉園間際の時間ということもあってか人は少なめでした。
ネモフィラ畑(長居植物園)

写真を撮るのは不得意なので、イメージ写真のつもりでご覧ください(^^;)
ネモフィラの花(長居植物園)

風に吹かれて静かに揺れる青い花を見て心が癒されました♪
ネモフィラの花(長居植物園)

あと、ネモフィラ畑をバックに自撮りもしました。但し、坊主頭のおじさんが一人で写っているのは、せっかくのネモフィラのイメージを壊しそうなので、こちらへの掲載は自粛させていただきます(笑)

さて、話は変わりますが、長居公園の中は、季節によってさまざまな花が咲いているので、健康維持のためにランニングをしている途中、つい足を止めて写真を撮ってしまいます。

こちらは、4月11日のサトザクラ。ソメイヨシノの見頃が終わった後の主役です。
サトザクラ(長居公園)

こちらの花は4月13日の早朝に咲いているのを見つけました。初めて見る花で、名前は分かりませんでした。
名前の分からない花(長居公園)

こちらは4月18日のハナミズキ。このあたりの道路沿いの小さな木は2年半前の台風で軒並み倒れてしまいました。でも、こうやって復活して鮮やかな花を咲かせてくれて嬉しいです。
ハナミズキ(長居公園)

そして、こちらは4月21日の朝、長居公園へ向かう途中の道沿いに咲いていたツツジ。今年は例年より開花が早い気がします。
ツツジ(大阪市)

最後の写真は花ではなく、最近、仕事関係の本をネットで探していた時に「おすすめの本」として挙がってきて、ついで買いしたのが『言いかえ図鑑』という本です。

言いかえ図鑑

「図鑑」といっても文章が中心で、日常生活や仕事の中でつい口にしてしまう「よけいなひと言」を少し言いかえるだけで相手から受け入れられるようになるという例が、いろんなシーンの中で取り上げられています。

この本は夜、布団に入ってから読み始めることが多く、すぐに寝入ってしまってなかなか読み進められていませんが(汗)、人と直接会って話をする機会が減っている昨今、ちょっとしたひと言で相手に好印象を与えることで良好な人間関係を築き上げていければいいなぁ…と思います。

そういえば、この投稿をするにあたって、ネモフィラの花言葉を調べてみたところ、「success everywhere(どこでも成功)」という超・前向きな言葉が出てきました。ネモフィラには他にも「可憐」や「あなたを許す」などの花言葉があるそうです。

綺麗な花を見て心が癒され、前向きな言葉に出会って勇気をもらい、夢と希望にあふれた明日へと一歩一歩進んでいける日々を過ごしたいものですね(*^^*)

年賀状を書く前に今年の振り返り

こんにちは。マーケティング部門の副島です。
今年も残すところ2週間となりました。
近所の公園では十月桜が花開く中、15日には郵便局で年賀状の受付も始まりましたね。

年賀状を書く前に今年の振り返り

長居公園の十月桜



かくいう私は例年、年賀状の作成に取り掛かるのが遅くなりがちで、以前は郵便局に持ち込むのが元日になったことも!(汗)
最近は自社ブランド・おたより本舗の年賀状印刷サービスを利用するようになり、大晦日をのんびり過ごせるようになりました(^^)

来年・丑年の年賀状については、ただいまデザインや写真選びの真っ最中!
添え書き文に何を入れるかも考えなくてはならず、これを機会に今年の出来事を振り返ってみました。

・1月・・・正月早々、インフルエンザ感染!
・2月~・・マラソン大会が相次ぎ中止に
・4月・・・実家の両親が施設に入居、猫のミーコを引き取り
       緊急事態宣言発令、おうち時間・家事の時間が増加
       業務が在宅勤務中心に、19年在籍したジムを退会

・5月・・・ミーコ失踪事件
・6月・・・アーツ人事制度改革
       自宅に2台目のエアコン設置
・7月・・・レジ袋有料化
・8月・・・自宅に光回線導入
       人生初の全身麻酔で大腸・胃の検査(⇒異常はナシ)

・9月・・・中3以来の丸刈りに!(⇒やましいことはナシ)
・10月・・大阪城公園でお猿の6時間走
・11月・・マーケティング部門の組織変更
       久しぶりの大会参加(⇒山の中で密はナシ)
       25年使ってきたPHSからケータイに切り替え

いろいろと変化の激しい1年でした。

例年どおりなら年賀状は私のランニング写真のてんこ盛り状態になるところでしたが(^^;)、今年はマラソン大会に出る機会がほとんどなかったので写真は少なめになりそうです。
そんな時に助かるのが、おたより本舗の「写真控えめ」のデザイン
来年のお正月は帰省しないため家族、親戚や友人に会うこともできませんが、その代わりに普段の姿で年始のご挨拶をするのもいいですよね。
(そう言いながら、ちゃっかり大会の写真を載せているかもしれませんが笑)

年賀状を書く前に今年の振り返り

大阪府チャレンジ登山大会、コケたけど完走!



また、写真入り年賀状でのご挨拶を控えたい方に対しては、アマビエのイラストで人気の「元気です!」デザイン で送ることも検討中です。
正月のインフル感染はともかく、1年を通して元気に過ごせたのは、健康管理が上手くできたということもありますが、周りの皆さんの支えがあったからこそ!
自分が元気であることを伝えると共に、つながりのある方への感謝の気持ちも込めた年賀状を書きたいです。

そんな年の瀬のイベント、年賀状作りを楽しんだ後は、ミーコと共に穏やかなクリスマス~年末年始を迎えるつもりです(^^♪

年賀状を書く前に今年の振り返り

ミーコとのひととき♪


大阪市境ラン、完走!

こんにちは、マーケティング部門の副島です。
標題の「大阪市境ラン」は、マラソン大会の中止が相次いだ半年前に「大阪市とその周辺の市との境界線沿いに走ってみよう!」と思い付いて始めた私オリジナルの企画です♪
第1弾は3月15日に大阪市の南西端、南港から東部の久宝寺緑地公園まで走りました。
(前回の投稿はこちら) 
200917_border-run_1

その続きは新型コロナウイルスの感染拡大に伴う外出自粛のため延期していましたが、7月19日、4か月ぶりに再開!

第2弾は前回のゴール地点、久宝寺の公園から11時前というやや遅めの時間にスタート!
前回同様、地図アプリを頼りに東大阪市・大東市・門真市との境界線付近を北上し、ほぼ初めての場所を走りました。
ところが、道を間違えたり、工場や住宅の敷地内が境界線のため立ち入れなかったりして、無駄走りが多い・・・(^^;)
200917_border-run_2-2

暑~い中、走るペースが上がらないこともあって時間がかかり、当初の秘かな目標だった「淀川まで出る」のは諦め、鶴見緑地駅を今回のゴールに定めて15時半過ぎにランを終了しました。
200917_border-run_2-1

続く第3弾は、1週間後の7月26日。
10時20分、鶴見緑地駅をスタートして1時間程で雨が降り出し、カッパを着てラン続行!
門真市・守口市との境界を走り、更に淀川を渡って摂津市・吹田市との境界をウロチョロ。
その間、雨脚は強くなったり弱くなったり…。
雨の中で地図確認や写真撮影のため時々スマホを取り出していたらカメラのレンズが結露して撮りにくくなってきました!
200917_border-run_3-2

阪急相川駅に着いたところでランを終了しましたが、スマホに雨水が浸透して基盤をやられたようで、徐々に画面タッチとは違う動作を始め、2日後には全く反応しなくなり、携帯ショップにて交換手配する羽目に(泣)
200917_border-run_3-1

新しいスマホが到着した後の8月2日、第4弾に挑戦!
大阪湾までの残りの距離を測ってみると20km程度で、「これなら今日ゴールできる!」と思ってましたが・・・。
猫のミーコの世話などをしていたら出遅れて、11時半過ぎという、走るのには暑すぎて不向きな時間帯に阪急相川駅をスタート。
200917_border-run_4-2

神崎川の左岸がメインのルートを下流に向かったものの日蔭が少なく、ペットボトルのドリンクがお湯になるほどのジリジリした暑さに熱中症の危険を感じて「もう止めよう!」と決断。
15時前、阪神千船駅に着いたところで終了しました(>_<) 200917_border-run_4-1

第5弾は2週間後の8月16日。
午後から家の用事があったので午前中のスキマ時間に走り終えよう…と、阪神千船駅を8時半にスタート!
千船駅のある佃島をグルリ1周した後、西淀川区の西端へ。
堤防やフェンスのため対岸の尼崎市の景色を見ることはほとんどないまま、7.77kmを1時間弱で走ってフィニッシュ\(^o^)/
200917_border-run_5-2

コロナ感染拡大による長期中断やスマホ故障などのトラブル、境界と道路が一致しないことによる無駄走りは多々ありましたが、延べ98kmを無事にようやく完走できて嬉しかったです。
200917_border-run_5-1

そして、また落ち着いたら、今度は違う境界線ランを楽しみたいと考えています♪

さて、本日9月17日、また一つ歳をとりました。
こういう日にブログ当番が回ってきて運命を感じます(笑)

頭が固くて新しいことを取り入れるのに時間がかかることもありますが、まだまだ老け込む歳ではない!と信じて、仕事もプライベートも頑張っていきますので、どうぞよろしくお願いいたします。