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スタッフブログ

「1.17」から27年

こんにちは、マーケティング部門の副島です。
今年も、私にとっては忘れることができない「1月17日」が近づいてきました。

27年前の1995(平成7)年1月17日5時46分、兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)が発生した時、私は神戸市東灘区の木造アパートの2階で震度7の直撃を受けました。
 
まるでアパート全体がプールかトランポリンに投げ込まれたような激しい揺れが上下にゆっさ、ゆっさと続き、やっと収まったかと思うと、もう一度揺れが・・・。
よく言われる縦揺れとか横揺れとか考える余裕もなく、頭から布団をかぶり、なすすべもなく耐えるしかありませんでした。

当時住んでいたアパート。隣の家にもたれて倒壊せずに済みました。

当時住んでいたアパート。隣の家にもたれて倒壊せずに済みました。※写真は後日撮影


揺れが収まった後、家の外からシューッと水が噴き出すような音や「おーい、おーい」と誰かが叫ぶ声が聞こえてきたため不安な気持ちになり服を着ていると、自治会の方が心配して迎えに来てくれました。

ようやく部屋の外に出ると、隣の一戸建住宅が軒並み傾き、その向こうに見えるはずのない景色が広がっていました。
周辺ではガスの臭いが立ち込めていたため、一旦その場を離れ、6時30分頃、公衆電話から実家の親に無事を知らせた後、自宅前に戻ってくると、近所の崩れた家から老人の男性が助けだされるところでした。

ふすまの上に載せられた男性を近くの医院まで運び込むのを手伝いましたが、既に亡くなられており、駆け付けた息子さんが泣き崩れるのを見て、いたたまれない気持ちになり、その場を去りました。

近所ではあちこちで家が倒壊して道路をふさいでいました。

近所ではあちこちで家が倒壊して道路をふさいでいました。


そこから歩いて5分ぐらいの所にある大きな病院に行ってみると、1階部分がつぶれており、たくさんの入院患者の方が道路などに寝かされていました。その中の一人のおばあさんと「命があるだけでも良かった」などと話をした後、中年の男性が横たわっているのに気づきました。

近寄ってみると、顔から血を流して「体が痛い、痛い」と言っておられました。私はどうしたらいいかわからず、そばに居るだけでしたが、しばらくすると、声が聞こえなくなったので急いで近くにいた医師を呼び、心臓マッサージをしてもらいましたが、その甲斐もなく、息を引き取られました。8時30分頃でした。

あの男性が亡くなられた時の顔、ほっぺたの冷たさは忘れることができません。
どこかで崩れた家に身体をはさまれて、やっと助け出されて病院の前まで運び込まれたのに、家族にも看取られず、亡くなってしまうなんて、悲しすぎます。どんなに悔しかったことでしょうか・・・。 改めて、ご冥福をお祈りします。

駅前の店舗兼住宅の大きなビルも1階がつぶれていました。

駅前の店舗兼住宅の大きなビルも1階がつぶれていました。


その日から3日間は近くにあった教会に泊めてもらい、4日目に大阪市内の勤務先に出社するため自転車で阪急西宮北口駅まで行き、そこから電車で会社に向かいました。
現在のアーツの社長をはじめ、当時所属していた会社の皆さんには、新居が決まるまで交代で家に泊めてもらったり、家探しや物資の支援など大変お世話になりました。感謝の気持ちは今でも忘れていません。

震災から1年ほどの間は、大きな物音におびえたり、夜中に地震のことをいろいろ思い出して眠れないこともありました。
その後も、いろいろと環境が変わっていく中で「自分なんか居なくてもいいんじゃないか」と時々思うこともありました。
でも、あれだけの災害の中で生き残った者の一人として、自分も含めて人の命というものを大切にしていかなければいけないと、毎年1月17日が来るたびに思い起こします。

神戸・三宮の東遊園地にある「一・一七 希望の灯り」。

神戸・三宮の東遊園地にある「一・一七 希望の灯り」。


地震が起きたあの日あの時、自分は呆然としてしまって何もできませんでした。
もっと自分がしっかりしていれば、誰かを助けることができたんじゃないだろうか・・・とよく考えます。
今、同じような災害が起こったとしても、何ができるかわかりませんが、あの時のことを思い出して、自分ができることを果たしたい、そのためにも日頃から備えをしておきたいと思います。

昨年1月17日に防災食として購入しました。

昨年1月17日に防災食として購入しました。


(以上は、震災20年となった7年前に初めて自分の体験をSNS上で綴った内容を書き直したものです。)