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初めての喪主代行

こんにちは、マーケティング部門の副島です。
6月初め、母が81才で亡くなりました。誤嚥性肺炎でした。

入居していた老人ホームで5月下旬に食べ物を喉に詰まらせ、血中酸素濃度が70%程度しかない状態となって緊急搬送されました。
その後、酸素濃度は90%台まで戻ったものの、回復のために数日間~1週間の治療が必要と病院から電話で説明を受け、入院5日目には酸素マスクが取れて酸素濃度は98%、呼吸は安定している、と聞かされました。
4月に同じ症状で10日間入院した時と同様に退院の日も近いのでは?と期待していたのですが・・・。

入院9日目の朝5時前、突然携帯電話が鳴り、病院から「母の血圧が下がっていて意識が無い」と、まさかの急変の知らせ!
突然の話に呆然としながら弟や親戚に連絡を取り、バタバタと準備をして6時半前に家を出て地下鉄~新幹線~特急列車と乗り継いで11時過ぎに病院に着いたとき、病室で一人ベッドに横たわっていた母は顔が痩せ細っていたけど、まだ息をしていて、こちらを見ているようでホッとしました。

でも「お母さん、お母さん」と呼びかけても反応はなく、そのうち母の呼吸(喉の動き)が止まっている時間がだんだん長くなってきて・・・。
看護師さんに言われて気付いた時には母の息が完全に止まっていて、12時34分、担当の医師から死亡の宣告を受けました。

母の顔を見て1時間半も経たないうちに亡くなってしまい、遠方から向かっていた弟は間に合わず、県内から見舞いに来た叔母たちも帰った後で、私一人が看取る形になりました。

通夜前の斎場。椅子の間隔を空けて配置されています。

通夜前の斎場。椅子の間隔を空けて配置されています。


それから葬祭場に連絡して、自宅に母の遺体を搬送してもらい、お坊さんを呼んで「枕経」を済ませた後、近隣の親戚が弔問に訪れる中、葬儀会社のスタッフと長時間にわたって打ち合わせを行いました。

通夜~葬儀~火葬の日程調整から始まり、
・斎場のホール(大・小の2択)
・祭壇や供花の種類
・棺の種類、納棺師の手配
・骨つぼ、それを入れる箱
・霊柩車の車種
・火葬場まで行く人を送迎するジャンボタクシー
・通夜の後で親戚に出す料理、火葬場で待つ間に出すお弁当
・初七日から帰ってきたときに食べる料理
・弔問客に渡す香典返しの数と種類、自宅に置く予備
・地元紙のお悔やみ欄への掲載
など、いろんなことを弟や叔母と相談しながら決めていきました。
(スタッフから提示されたパンフレットを見ながら、映画『老後の資金がありません!』を思い出していました。)

遺影に使う母の写真を探したところ30年ぐらい前に働いていた頃のものしかなくて焦りましたが、3年ほど前にデイサービス先で父と一緒に写った笑顔の写真が見つかり採用することに。
遺影の額縁は一般的な黒だと思っていたら、明るい紫色のタイプが母に似合うと勧められて迷ったあげくに紫に決定。
普段着だった元の写真から、合成で着せ替えできると知って、これまたいろんなパターンから迷いながら額縁に合わせて紫色の落ち着いた感じの和服に決定。背景も明るめのオレンジ色にしてもらいました。

また、スタッフの厚意により、思い出の写真をいくつか集めたコラージュ写真を作り、斎場にコラージュ写真と一緒に母が好きだった演歌歌手のカセットテープや民謡の本、デイサービスで書いた塗り絵を展示するコーナーを設置してもらうことになりました。

母のコラージュ写真と思い出の品々のコーナー。

母のコラージュ写真と思い出の品々のコーナー。


翌日には施設に居る父に面会して母のことを伝えました。これが一番つらくて声が上ずってしまいましたが、逆に父から「しっかりしろ」と言われました。
午後から納棺師の方が2名来られて母の身体を清め、母の衣装ケースの中にあった着物を着せたあと、親類一同で母が愛用していた服を棺の間に詰め込みました。
(入れすぎると火葬に時間がかかるとのことでしたが)

それから斎場に移動し、すぐそばの市役所に死亡届を提出。司会者の方に対して病気がちだった母の思い出を語っていたとき、不意に涙が出てしまいました。
こじんまりとした式のため参列者の数は少ないながらも親戚や同級生、近所の方が見えられてお悔やみの言葉をいただき、こういう形での久しぶりの再会にまた涙が出そうになりました。

18時から通夜が始まり、父も施設から車で送ってもらって参列。最後には、前夜に葬儀会社の担当スタッフから渡されていた「お通夜の挨拶例文」を少しアレンジしたものを喪主の父の代わりに読ませていただきました。
その夜は斎場の控え室に宿泊。人数以上に注文してしまった料理は食べきれず、線香の火を絶やさないように2時間ごとに起きて朝を迎えました。(13時間は消えないという線香でしたが念のため)

午前中、スタッフから遺族の焼香の際の段取りの説明(お坊さんや参列者への礼の仕方など)を受け、司会者が母のエピソードを紹介してくれた後、13時から葬儀が始まりました。
喪主の父の焼香の際には隣で手を支えながらなんとか済ませ、続いて自分の順番が来て緊張しながら祭壇の前に進んでお祈りしました。前日と同様、最後に「遺族・親族代表挨拶文」を読み上げて無事に終了。
棺の中に祭壇の花や思い出の品を入れて出棺。その際にも参列者の方に短く挨拶して火葬場に向かい、火にかけられる前の母の顔に「ありがとう」と言ってお別れしました。

火葬が終わった後、お寺に移動してその日のうちに三日参り、初七日まで済ませ、帰宅したのは18時近くになっていました。

父に代わって身内の葬儀を初めて取り仕切ることになり、慌ただしく時が過ぎていく中、何をすればいいのか戸惑うこともありましたが、弟家族や従兄弟をはじめ、親戚、友人、地区の皆さん、介護サービスの皆さん、葬儀会社、それにお寺のお坊さんなどのお蔭で滞りなく進めることができました。

その後、お骨になって自宅に帰ってきた母を誰もいない家に置いてはおけず、位牌だけを大阪に持って帰ることに。お骨と遺影をお寺に持参して二七日(ふたなのか)から六七日(むなのか)までの一週間ごとの法要をお願いしました。

それからも各所への相談・届け出、施設からの母の荷物の引き上げ、病院への入院代の支払いなどを済ませ、母が亡くなってから6日経った夜にようやく大阪に戻りました。
帰りの特急列車に乗ったときは気が抜けたのか眠気を感じ、新幹線に乗り継いだ直後は急に涙があふれてきて30分以上止めることができませんでした。(隣の席に誰も居なくて良かったです。)
翌日、8日ぶりに会社に出勤すると、たくさんの方から温かい言葉をかけてもらい、そこでも胸にグッとこみ上げるものがありました。

母は私の小さい頃から身体が弱く、あちこちの病院に入院したり、脳腫瘍や乳がん、子宮筋腫などの病気になったりしていました。
そして私は高校卒業後に関西に出てきて大学中退、阪神大震災被災、結婚しない、正月にも帰らない、帰省しても走るの優先…と自分の好き勝手に生きてきて母には心配をかけてばかりでした。

他の家族もいろいろあって心穏やかな人生ではなかったかもしれません。でも、5年前に母が倒れて数ヶ月間入院してからは帰省する回数が増えたので、少しは親孝行できたのかな・・・?
毎朝、母の祭壇にごはんとお茶、お水をお供えするのが日課になったこともあり、亡くなってから母のことを思い出したり考える時間が多くなりました。
これから母にはゆっくり休んで、静かにこちらを見守ってほしいと願っています。

父の日にアーツギフトから「くりーむパン」を父に贈り、同じものを母の祭壇にお供えしました。

父の日にアーツギフトから「くりーむパン」を父に贈り、同じものを母の祭壇にお供えしました。


母の訃報を知らせることができなかった方には弔事はがきを送らせていただきましたが、今後も四十九日法要~納骨、相続の手続きや遺品の整理などが続きます。
先月末から今月初めにかけて、父の通院の付き添いや母の様々な手続きのため帰省して同級生のいとこに会った時、四十九日の法事の準備に一部漏れがあったことが発覚!

白木の位牌から本位牌に変えるため地元の仏壇店への発注、仏間に飾るお花の手配、猫が破ってボロボロになった座敷の障子の貼り替え依頼は済ませていたものの、出席者のお弁当や引き出物、そして母にお供えする御霊供膳(おれいぐぜん)のことが全く抜け落ちていました。法事までに間に合うよう慌てて手配を進めているところです。
そして、四十九日が終わり「忌明け」となったら香典返しも忘れないように準備をしていきます。

気がかりなのは全国でコロナの感染が再拡大していること。なんとか無事に法事を済ませることができて母に落ち着いてもらえるよう願う日々です。
これからは残された父を支えるために、私自身も心身の健康を保ちながら頑張って生きていこうと思います。

今年3月のお彼岸の時に施設を訪問し、窓越しに電話したのが最後の面会でした。

今年3月のお彼岸の時に施設を訪問し、窓越しに電話したのが最後の面会でした。


長くなってしまいましたが、最後に、皆さんの中で、お年を召された親御さんがいらっしゃる場合は、(今は難しいということがあるかもしれませんが)話をしたり、会いに行ったり、できるうちにたくさんしてあげてくださいね。